パラサイト北海道「過剰インフラの対応」 ~ Vol.1
2023.02.16
パラサイト北海道「過剰インフラの対応」 ~ Vol.1
VOL.01 運営から経営へ
先にみたように、過剰インフラは今後更に深刻化する。
北海道は東北6県より広く、人口密度も低いため、インフラの非効率性は宿命的である。
これまでは拡大均衡政策が続いていたため効率性は後回しになっていたが、これからはインフラの効率性を考えなければならない。
札幌市でさえ2100年には人口60万人時代になると予測する学者もいる。
これまで足りない費用は全て補てんされてきたため、インフラを作ることが全てであった。
しかし、使いきれないインフラの維持管理コストは我々の肩に重くのしかかってくる。
インフラは十分に使ってこそ、その価値がある。
ケインズ政策が有効であったのは、有効需要が十分に期待できた時代の話である。
公共事業により有効需要を創出しようと思っても、人口減少時代にあっては有効需要の創出には必ずしも寄与しない。
事実、道内においてバブル崩壊後も多額の公共事業予算が使われたが、バブル以前程の効果はみられず、北海道経済は未だ浮上しない。
公共事業の実施にあたっての需要予測が甘かったといえばそれまでだが、何より50年・100年先を見据えた街づくりの視点が欠けていたことの方が問題と考える。
量的拡大が先行し、国も地方も住民ももっと沢山、もっと沢山と言って公共事業予算を拡大してきたが、人口減少の後には使いきれないインフラが残り、地元住民を苦しめることになる。
予算が十分に使えるときは、効率性やコストを考えずに済む。
赤字になっても税金で面倒をみてくれるので、行政の仕事の大半は予算を使うことである。
間違っても予算を残してはいけないことになる。
余すと事業見通しが甘いと非難される。
役所仕事は、何時も予算が足りないのがちょうど良いとされる。
効率性やコスト・責任を考えなくてもいい仕事のやり方を運営という。
文字どおりただ動かすだけである。
これに対して経営とは、効率やコストを考え、失敗すれば責任を取るのが経営である。
特別会計予算で無駄な施設を全国あちらこちらに作り、挙句の果てに二束三文でタタキ売りし、その責任を誰も取っていないのは運営の最たるものである。
民間会社であれば、責任者は自己破産を免れないであろうし、職員も路頭に迷うことになる。
小泉改革は小さな政府、小さな行政を目指しており、官から民への流れは行政の効率化を促すものと考える。
これからの行政にとって必要なのは、運営感覚を捨て、経営意識を持つことであると考える。
効率性やコストを考えないと、地方自治体は存続できない。
話はややそれてしまったが、過剰インフラの対応方法は一筋縄ではいかないが、間違いなく言えることは広大な土地に散居することではなく、できるだけコンパクトな街を作り上げることである。
各市町村は縮小均衡の道をたどらざるを得ないのであるから、各市町村毎に実施可能な行政サービスの再点検を行う必要がある。
その結果、市町村間における行政サービス・料金の格差が生じ、市町村は二極化する可能性がある。
市町村の二極化は市町村間の行政サービス等の競争機運を生じさせ、行政サービスの格差から人口の社会移動は大きくなる。
市町村間の生き残り競争から現在残っている市町村全てがこれまでと同様に生き残れる保障はない。
過剰インフラの問題を克服し、行政サービスのレベルを維持するためには、情においては忍びないが、大胆な市町村等のリストラは避けて通れないものと思われる。
道民も、生き残りを願うなら行政サービスの低下もあえて我慢する必要がある。
国にも地方にも、これ以上使うお金はない。
終戦時の状況からみれば十分豊かな生活をしているのであるから、多少の我慢はやむを得ない。
非難の応酬や責任のなすり合いをしても何の解決にもならない。
負担と受益は良い悪いの問題ではなく、選択の問題である。
小泉首相の言葉を借りるならば、負担なくして受益なしである。
受益と負担をどうバランスさせるかは選択の問題である。
市町村長さんは選挙のたびにサンタクロースになってはいけないし、住民もプレゼントを期待してはいけない。
耳あたり、口あたりの良い話は心地良いが、タダほど高いものはない。
立派な庁舎・立派な図書館・立派な公民館・体育館・保育所・公営住宅・下水道等の公共インフラの維持管理費は、人口減少とともにやがては住民の負担となって重くのしかかるであろう。
うまい話はないのである。
暗い希望のない話が続いたが、次回最終回では、アジア有数の自然的条件を備えた北海道の可能性から自立への道を検討し、パラサイトへの決別の辞としたい。
VOL.01 運営から経営へ
先にみたように、過剰インフラは今後更に深刻化する。
北海道は東北6県より広く、人口密度も低いため、インフラの非効率性は宿命的である。
これまでは拡大均衡政策が続いていたため効率性は後回しになっていたが、これからはインフラの効率性を考えなければならない。
札幌市でさえ2100年には人口60万人時代になると予測する学者もいる。
これまで足りない費用は全て補てんされてきたため、インフラを作ることが全てであった。
しかし、使いきれないインフラの維持管理コストは我々の肩に重くのしかかってくる。
インフラは十分に使ってこそ、その価値がある。
ケインズ政策が有効であったのは、有効需要が十分に期待できた時代の話である。
公共事業により有効需要を創出しようと思っても、人口減少時代にあっては有効需要の創出には必ずしも寄与しない。
事実、道内においてバブル崩壊後も多額の公共事業予算が使われたが、バブル以前程の効果はみられず、北海道経済は未だ浮上しない。
公共事業の実施にあたっての需要予測が甘かったといえばそれまでだが、何より50年・100年先を見据えた街づくりの視点が欠けていたことの方が問題と考える。
量的拡大が先行し、国も地方も住民ももっと沢山、もっと沢山と言って公共事業予算を拡大してきたが、人口減少の後には使いきれないインフラが残り、地元住民を苦しめることになる。
予算が十分に使えるときは、効率性やコストを考えずに済む。
赤字になっても税金で面倒をみてくれるので、行政の仕事の大半は予算を使うことである。
間違っても予算を残してはいけないことになる。
余すと事業見通しが甘いと非難される。
役所仕事は、何時も予算が足りないのがちょうど良いとされる。
効率性やコスト・責任を考えなくてもいい仕事のやり方を運営という。
文字どおりただ動かすだけである。
これに対して経営とは、効率やコストを考え、失敗すれば責任を取るのが経営である。
特別会計予算で無駄な施設を全国あちらこちらに作り、挙句の果てに二束三文でタタキ売りし、その責任を誰も取っていないのは運営の最たるものである。
民間会社であれば、責任者は自己破産を免れないであろうし、職員も路頭に迷うことになる。
小泉改革は小さな政府、小さな行政を目指しており、官から民への流れは行政の効率化を促すものと考える。
これからの行政にとって必要なのは、運営感覚を捨て、経営意識を持つことであると考える。
効率性やコストを考えないと、地方自治体は存続できない。
話はややそれてしまったが、過剰インフラの対応方法は一筋縄ではいかないが、間違いなく言えることは広大な土地に散居することではなく、できるだけコンパクトな街を作り上げることである。
各市町村は縮小均衡の道をたどらざるを得ないのであるから、各市町村毎に実施可能な行政サービスの再点検を行う必要がある。
その結果、市町村間における行政サービス・料金の格差が生じ、市町村は二極化する可能性がある。
市町村の二極化は市町村間の行政サービス等の競争機運を生じさせ、行政サービスの格差から人口の社会移動は大きくなる。
市町村間の生き残り競争から現在残っている市町村全てがこれまでと同様に生き残れる保障はない。
過剰インフラの問題を克服し、行政サービスのレベルを維持するためには、情においては忍びないが、大胆な市町村等のリストラは避けて通れないものと思われる。
道民も、生き残りを願うなら行政サービスの低下もあえて我慢する必要がある。
国にも地方にも、これ以上使うお金はない。
終戦時の状況からみれば十分豊かな生活をしているのであるから、多少の我慢はやむを得ない。
非難の応酬や責任のなすり合いをしても何の解決にもならない。
負担と受益は良い悪いの問題ではなく、選択の問題である。
小泉首相の言葉を借りるならば、負担なくして受益なしである。
受益と負担をどうバランスさせるかは選択の問題である。
市町村長さんは選挙のたびにサンタクロースになってはいけないし、住民もプレゼントを期待してはいけない。
耳あたり、口あたりの良い話は心地良いが、タダほど高いものはない。
立派な庁舎・立派な図書館・立派な公民館・体育館・保育所・公営住宅・下水道等の公共インフラの維持管理費は、人口減少とともにやがては住民の負担となって重くのしかかるであろう。
うまい話はないのである。
暗い希望のない話が続いたが、次回最終回では、アジア有数の自然的条件を備えた北海道の可能性から自立への道を検討し、パラサイトへの決別の辞としたい。
(2001年・2002年 グローバルヴィジョン/「パラサイト北海道」)
(2019年4・5・6月 北方ジャーナル掲載/「パラサイト北海道」)