日本人の問題対処の問題 ― 問われる日本人の品格 ― ~ Vol.5
2023.11.09
VOL.05 問題対処の第Ⅲステージ ― なし崩し ―

 歴史的にみても、この国のリーダーと称する人々の責任の取り方は、ほとんど納得できないレベルにある。
 問題が起きたら取り敢えず先送りできるだけ先送りして時間を稼ぎ、ほとぼりが冷めるのをひたすら待ちわびる。
 その忍耐力は、驚異的でさえある。

 国民の関心や興味が薄くなると、問題の本質が何であったかは遠くに追いやられ、問題のすり替え等が巧妙に行なわれる。
 そうすると、大半のことがウヤムヤになり、問題は矮小化され、国民も何となくこれを受け入れるようになる。

 ここまで来ると、これまでの問題はあたかも無かったか、そもそも大したことではなかったかのように錯覚したり、させられたりして、元の木阿弥状態となる。

 もっとも、一気に元に戻すと抵抗も大きくなるので、小出しにしながら世間の反応を見て、着実に少しずつ元に戻そうとする。

 国民もその頃には記憶も遠くになり、そんなものかと諦め、受け入れるようになる。

 日本人は、中東の人々と異なり、抵抗線が崩れると呆気なくこれまでの考え方を放棄し、相手方の意向を受け入れる傾向が見られる。

 第二次世界大戦の敗戦前後の新聞記事が、その間の事情を良く表している。
 ポツダム宣言受諾前は鬼畜米英と叫び、一億総玉砕と煽り立てていたのが、ポツダム宣言受諾後は、民主主義万歳、アメリカ万歳である。

 個人的には、一晩でかくも大胆に変われる日本人に、ある種の恐れを覚えずにはいられない。

 同じ日本人同士なのに、立場や思想の違いを理由に新兵をいじめた古参兵も、戦争を危惧する者を特高警察を使って弾圧し、拷問等を平気でやった警察官僚も、それを命じた上司も、ポツダム宣言受諾後は皆知らぬ顔をして善人ぶって生きてきたのである。

 社会もそのこと自体を究明しようともしなかったのであるから、ある意味同罪である。

 世界の情勢を良く知らない大多数の国民も、敗戦直前まで戦争に反対する者を非国民と罵り、弾圧したのであるから、特高警察や戦争指導者を非難する権利はないのかもしれない。

 いずれにしても、何が真実で何が正義なのかは、誰にも分からないのである。

 故に、誰も責任を追及しないし、責任を取ることもない。

 悪かったのはそういう社会で、個人に責任はないのだと思っている。

 もちろん、日本人特有の美徳を否定はしないが、それにしても一瞬にして価値観をひっくり返す国民性に、唖然とする他はない。

 歴史に学ぼうとしない日本社会は、これからも反省を活かすことなく、価値観の大転換をする可能性があると思っている。

 一人一人きちんと自分自身や社会と向き合って、物事の本質を考えるようになってもらいたいが、生きているうちにこのような社会が来ることはないのかなとも思えるのである。

 個人情報保護法は匿名社会を到来させ、無責任情報を垂れ流し、かつ匿名をいいことにして、気にくわない人間を誹謗中傷する。

 その一方で、権力者は個人情報を掻き集め、監視しようとする。

 個人情報等は全てオープンにすれば、陰に隠れて他人を誹謗中傷することは難しくなる。

 個人情報の全てを権力者に握られてコントロールされるのを良しとするのであれば、いっそ生体マイクロチップを体内に埋め込み、GPSで一人一人を監視するようになれば、劇的に犯罪は減少するものと思われる。
 安心安全のためには、それも致し方ないことと思われるが、これらの問題は善悪の問題ではなく、選択の問題である。

 言葉を換えれば、自己責任として対応するか、社会的責任として対応するかの問題とも言えるのである。

 豊かさと便利さの追求の果てに総監視社会が来るのは、ある意味歴史の必然なのかもしれない。

 コンピュータの発達は、まさしくそのことを可能にしようとしている。

 監視する側に回るか、監視される側に回るかは、国民一人一人が決めることである。

 個人的には、監視される側に回る方が、気が楽である。

 とても他人のプライバシーを嗅ぎ回ることが生きがいになるとは思えないが、世の中には他人のプライバシーと他人の不幸が三度の飯より大好きな人が相当数いるので、戦前の日本やナチスドイツのように権力者に命令された一般国民を監視・弾圧・殺害するかもしれない。

 もっとも、平時の市民感覚からみて罪がないと思うだけで、非常時かつ不満が鬱積し、社会が不安定化すると、権利者からみて不都合な人間は、罪のある人間となるので、監視・弾圧することに国民の大半の良心は痛みを感じないのではと思われる。

 事実、旧チェコスロバキアや中東の国々では人種が違うといって弾圧したり殺し合っていたこと等からも明らかである。

 第三者から見ると、同じ宗教を信じ、見た目も区別がつかないのに、スンニ派かシーア派かの違いだけで殺し合っていることに呆れる他はないが、このこと自体は紛争当事者以外の者には、多分どうしても理解できないものと思われる。

 また、世界的に見れば、種族・思想・言語・文化等の相違から、有史以来争いは絶えたことがない。

 歴史的に見れば、武装闘争のない時代の方が少ないのであるから、武装闘争のない表面的に平和な時代の方が極めて珍しいと考えるべきなのかもしれない。

 日本も、戦後70年も武力を行使せず、表面的には平和な時代が続いてきたが、歴史的な時間軸でみれば、70年はホンの一瞬であるから、この先どうなるかは全く分からないというのが正しい認識と思うのである。
2023.11.09 09:22 | 固定リンク | 鑑定雑感

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