言(加害意識)は水に流れ、聞(被害意識)は心に刻む ~ Vol.5
2022.10.20
VOL.05 言(加害意識)は水に流れ、聞(被害意識)は心に刻む
昨今の領土問題や韓国の少女像問題を契機に歴史問題が蒸し返されているが、いじめ問題もある意味似た側面がある。
子供時代の悪ガキはいじめっ子の代表であるが、大人になると意外と良い人になっており、悪ガキ時代の悪さやいじめのことはスッカリ忘れている。
尤も、本人自体が悪さやいじめの事実を自覚していないことが多いので、忘れるというより記憶に無いというのが正解なのかもしれない。
他方、悪さをされたりいじめられた方は深く傷つき、下手をすれば生涯忘れることができないでいる。
筆者もいじめられたり、悪ふざけをしたりしたが、不思議といじめられたことは覚えているが、悪ふざけで相手を傷つけたかもしれないことについては全く記憶にないのである。
50代の同窓会で、当人としては仲良くじゃれ合った程度としか思っていなかったことが、相手からお前にはいじめられたと言われたときは、正直ショックであった。
いじめ問題は国内問題であるから、世界の問題として外国からバッシングされることはないが、歴史問題となるとそうはいかない。
言葉は水に流れ、言われた方は感受性の程度の多少はあっても心に傷がつくこともある。
『モノは言いよう』と言うけれど、『言い方を知らない』人々が多くなっている現代は、まさにお互いに罵り合う時代と言っても過言ではないと思うのである。
言葉だけでも傷つくのに、加害行為が加われば、傷つく度合いは更に大きくなる。
戦後70年を経ても尚、戦前の日本の加害行為に対する問題が蒸し返されるのは、傷ついた者のある意味怨みに近い憎しみの発露かもしれない。
しかし、それ以上に問題なのは、戦争の大義があったとしても、日本が戦前のことは全て終わったことにして、諸外国と真摯に向き合ってこなかったことではないかと思うのである。
南京大虐殺30万人と喧伝されているが、ドイツはユダヤ人を 600万人も虐殺したのである。
にもかかわらず、ドイツがユダヤ人社会から、日本が中国や韓国からとやかく言われているのと同じように虐殺問題を蒸し返されているというようなことがあるとは聞いたことがない。
この差は一体どこから来るのであろうか。
新聞その他によれば、ドイツは今でも虐殺に関連した収容所の責任者の追求の手を緩めてはいない。
戦争犯罪人を自らの手で裁き、ユダヤ人社会に責任を果たし、二度とヒトラー時代のようなことが起きないよう、教育も含めて戦後処理を続けている。
繰り返しになるが、歴史を学ぶということは、断じて事件・事変の年代を覚えることではない。
歴史を学ぶということは、その時代に立ってどうしてそのようなことが起きたのか、何が問題であったのか、どうすれば回避できたのか等について思考を巡らせることであり、いわば思考訓練の一つではないかと思っている。
昨今の領土問題や戦前の問題の蒸し返しは、年表歴史教育のツケであると個人的には確信している。
強者に弱者の心理は分からず、弱者は被害者意識を募らせ、非難を繰り返す。
グローバル経済は少数の勝者と多数の弱者を排出させ、二極化が極度に進行して国家は不安定化する。
金融資本は自己に都合の良い国家を目指して移動し、国家の存在意義を問うことになる。
TPP問題は、嫌でも日本国民にグローバル化の代償を払わせるだろうと思うのであるが、残念ながら年表歴史教育で育った世代に、歴史的視点を持つことや、歴史に学び、それを踏まえた哲学的思考はできないので、時代の変化に適切に対応することは困難と思わざるを得ない。
更に問題なのは、冷静な議論ができるような教育・訓練ができていないということである。
小学校からの英語教育はそれなりに有意義とは思うが、批判と非難をゴチャ混ぜにしてまともな議論ができない人間ばかりを輩出するような現在の教育制度では、世の中はますます混迷化するのではないかと危惧している。
この年になっても反省することばかりで偉そうなことは言えないが、言(加害意識)は水に流れ、聞(被害意識)は心に刻むという仏教の教えを胸に刻み、冷静な議論ができる社会が来ることを望みたい。
昨今の領土問題や韓国の少女像問題を契機に歴史問題が蒸し返されているが、いじめ問題もある意味似た側面がある。
子供時代の悪ガキはいじめっ子の代表であるが、大人になると意外と良い人になっており、悪ガキ時代の悪さやいじめのことはスッカリ忘れている。
尤も、本人自体が悪さやいじめの事実を自覚していないことが多いので、忘れるというより記憶に無いというのが正解なのかもしれない。
他方、悪さをされたりいじめられた方は深く傷つき、下手をすれば生涯忘れることができないでいる。
筆者もいじめられたり、悪ふざけをしたりしたが、不思議といじめられたことは覚えているが、悪ふざけで相手を傷つけたかもしれないことについては全く記憶にないのである。
50代の同窓会で、当人としては仲良くじゃれ合った程度としか思っていなかったことが、相手からお前にはいじめられたと言われたときは、正直ショックであった。
いじめ問題は国内問題であるから、世界の問題として外国からバッシングされることはないが、歴史問題となるとそうはいかない。
言葉は水に流れ、言われた方は感受性の程度の多少はあっても心に傷がつくこともある。
『モノは言いよう』と言うけれど、『言い方を知らない』人々が多くなっている現代は、まさにお互いに罵り合う時代と言っても過言ではないと思うのである。
言葉だけでも傷つくのに、加害行為が加われば、傷つく度合いは更に大きくなる。
戦後70年を経ても尚、戦前の日本の加害行為に対する問題が蒸し返されるのは、傷ついた者のある意味怨みに近い憎しみの発露かもしれない。
しかし、それ以上に問題なのは、戦争の大義があったとしても、日本が戦前のことは全て終わったことにして、諸外国と真摯に向き合ってこなかったことではないかと思うのである。
南京大虐殺30万人と喧伝されているが、ドイツはユダヤ人を 600万人も虐殺したのである。
にもかかわらず、ドイツがユダヤ人社会から、日本が中国や韓国からとやかく言われているのと同じように虐殺問題を蒸し返されているというようなことがあるとは聞いたことがない。
この差は一体どこから来るのであろうか。
新聞その他によれば、ドイツは今でも虐殺に関連した収容所の責任者の追求の手を緩めてはいない。
戦争犯罪人を自らの手で裁き、ユダヤ人社会に責任を果たし、二度とヒトラー時代のようなことが起きないよう、教育も含めて戦後処理を続けている。
繰り返しになるが、歴史を学ぶということは、断じて事件・事変の年代を覚えることではない。
歴史を学ぶということは、その時代に立ってどうしてそのようなことが起きたのか、何が問題であったのか、どうすれば回避できたのか等について思考を巡らせることであり、いわば思考訓練の一つではないかと思っている。
昨今の領土問題や戦前の問題の蒸し返しは、年表歴史教育のツケであると個人的には確信している。
強者に弱者の心理は分からず、弱者は被害者意識を募らせ、非難を繰り返す。
グローバル経済は少数の勝者と多数の弱者を排出させ、二極化が極度に進行して国家は不安定化する。
金融資本は自己に都合の良い国家を目指して移動し、国家の存在意義を問うことになる。
TPP問題は、嫌でも日本国民にグローバル化の代償を払わせるだろうと思うのであるが、残念ながら年表歴史教育で育った世代に、歴史的視点を持つことや、歴史に学び、それを踏まえた哲学的思考はできないので、時代の変化に適切に対応することは困難と思わざるを得ない。
更に問題なのは、冷静な議論ができるような教育・訓練ができていないということである。
小学校からの英語教育はそれなりに有意義とは思うが、批判と非難をゴチャ混ぜにしてまともな議論ができない人間ばかりを輩出するような現在の教育制度では、世の中はますます混迷化するのではないかと危惧している。
この年になっても反省することばかりで偉そうなことは言えないが、言(加害意識)は水に流れ、聞(被害意識)は心に刻むという仏教の教えを胸に刻み、冷静な議論ができる社会が来ることを望みたい。
(2018年11月 傍目八目掲載/「言(加害意識)は水に流れ、聞(被害意識)は心に刻む」)