言(加害意識)は水に流れ、聞(被害意識)は心に刻む ~ Vol.2
2022.09.29
VOL.02 年表歴史教育の功罪

学校で教えられる歴史とは、年表歴史である。

先生は年代順にどういう事件や事変が起きたかを教え、生徒はクイズの正解を覚えるのと同じように、ただひたすらに事件・事変の年代を覚えることに没頭する。

 ところで、年表歴史の大半はものの見事に忘れてしまったが、どういう訳か、語呂合わせで覚えた種子島に鉄砲が伝来した1543年という年代だけは、今でもハッキリと覚えている。

 種子島に「イゴシミコンダ」と覚えるといいよと誰となく教えられたが、50年以上経過した現在でも忘れないでいる。

 若かりし頃は何とも思わなかったが、良く考えてみると事件・事変の起きた年代と、ニュースの見出しのような事件・事変のキャッチコピーを覚えて一体何のためになるのであろうか。

 鉄砲が伝来したその時代の状況も分からず、また鉄砲がその後どのように国内に広まって行ったのかも全く教えられずに、ただ年代を覚える、歴史教育というより年表暗記歴史教育に何の意義があるのだろうか。

 個人的には大人、それも恥ずかしながら50代になって鉄砲に関する資料等を読んで、はじめてポルトガル人が持ち込んだ鉄砲が当時の社会にどのように広がって行ったのかを知ったのである。

 丸い筒を作ることのなかった刀鍛冶が、設計図もなく、作る技術を教えられることもなく、藩主の命によってひたすら研究・試作に取り組み、完成させた。

 このことを良く考えてほしいのである。

 現在のように情報が氾濫していても、初めてみる製品を造るための道具や材質の確認・材料の調達の他、製作方法等を一から検討して同じモノを作るということが、どれ程大変なことかを。

 鉄砲が伝来した当時は、現在と異なり、鉄砲に関する情報は全くないのである。
2022.09.29 11:40 | 固定リンク | 鑑定雑感

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