前述のとおり、ある判断や選択に際して人間はヒューリスティクスを取りがちである。そして、ヒューリスティクスを取る際に気をつけなければならないのは、「ヒューリスティクスによるバイアス」があることだと指摘している。同書の引用が長くなるが、詳しく紹介してみたい。
「ヒューリスティクスによるバイアス」の第一の要因は、「代表性」であると指摘している。そして「代表性」とは、「典型的と思われるものを判断の基準ないし答として転用すること」と定義し、「代表性ヒューリスティクス」にはいくつもの種類があるとし、下記の例を挙げている。
@妥当性の錯覚
Aランダムな事象に規則性を見つけようとする錯誤
B標本の大きさの無視
C平均値への回帰の誤った理解
D事前確率の無視等
次に、第二の要因として、「利用可能性」を挙げている。
利用可能性とは、思い浮かびやすさ、つまりある事象が起きる確率や頻度を考える際に、最近の事例やかつての顕著な事例と特徴を思い出すことで評価することとしている。
実際に我々は、テレビや新聞等のメディアで大きく取り上げられると重大事件だと思ったり、高い確率で事件が起きたりすると勘違いする傾向があるが、これがまさに「利用可能性」によるヒューリスティクスのバイアスである。毒入りギョーザ事件が発生すると、ギョーザの売れ行きは激減した。
確率は極めて低いのに。BSE問題はアメリカ牛の輸入規制問題に発展し、吉野家の牛丼が一時期店頭から消えたことは記憶に新しい。確率的には自動車事故の方がはるかに危険度が高いのに、自動車が生産禁止になることはない。冷静な分析より情緒的、センセーショナルなほうが説得力が高いのは哀しいことである。がしかし、それに振り回されている自分に気がつかないのはもっと哀しい。
プロになるほど過信する
この見出しも、同書より拝借したものである。不動産鑑定士もプロの端くれである。個人的には過信できるほど能力はないので過信す
ることはないと思っている。しかし、こう考えること自体が既に大きな誤りがあることを、この本は教えてくれる。人間はそれほど完全ではないということである。
つまり、データの出し方・見せ方一つで判断が変わるのである。生存率10%と死亡率90%の治療法のどちらかを選べと言われれば、普通の人は間違いなく生存率10%の治療を選ぶであろう。しかし、客観的に見れば、どちらの治療法も生存率は10%で、死亡率は90%で変わりないのである。
ところで、同書によれば「大方のところ適切な判断を下す人は極めて少なく、一番多いのは自分の仮説の信憑性を常に過大評価するということである」と言っている。そしてプロ(エキスパート)の判断は、ときに深刻な問題になることがあるとして、次の例を挙げている。
「例えば、金融界では経験豊かな人ほど過大評価を抑えるどころかさらに高めてしまう。真のエキスパートほど慎重な判断をするものだが、自分の職業的能力の高さについてはプロほど過大評価する傾向がある。」
この指摘の説得力は極めて高い。何故なら、あれほど安全・確実と言われた住宅ローンを証券化した金融商品が、実は危険性の高いサブプライムローンを主に組み込んだものであることが判明したからだ。そしてブームは呆気なく崩壊し、世界同時不況の引金となったからである。サブプライムローン問題が表面化するまでは、投資適格性はトリプルAであった。格付会社の専門家はプロである。証券化不動産はDCF法による収益価格で信頼性は高いと言っていた人がいるが、本当か?
事実は冷酷である。
評価のプロである不動産鑑定士も、よほど注意深く自分を見つめていないと、金融プレイヤーと同じ過ちに陥る可能性は高い。他山の石として肝に銘じたいものである。 |