鑑定雑感 不動産鑑定士 堀川裕巳 コラム
 
◆ 節約は美徳か悪徳か? ◆ ー 蜂の萬話と相互律が示唆するもの ー
 
VOL.01 絶対的なるもの VOL.02 相互律について思うこと VOL.03 節約は美徳か悪徳か
 
VOL.04 蜂の萬話ー私悪すなわち公益 VOL.05 蜂の萬話ー私悪すなわち公益2  
 
◆ 七面鳥と不動産鑑定士 ◆ ー ガリレオとブラックスワンの世界 −
VOL.01 鑑定評価の科学性 VOL.02 合理性と数学 VOL.03 ブラックスワンの世界
 
VOL.04 予測可能と予測するのは可能か VOL.05 千と一日目の七面鳥
 

◆ 節約は美徳か悪徳か? ◆

ー 蜂の萬話と相互律が示唆するもの −
 

VOL.04 蜂の萬話ー私悪すなわち公益

  難波田先生の本も衝撃的であったが、1714年に出版されたバーナード・マンデヴィルの『蜂の萬話』という本も衝撃的である。この本を読めば、歴史が始まって以来、人間のやることはあまり変わってないことが分かる。さらに、どんなに美辞麗句で飾ってみても、所詮人間のありようは醜いものであることを知らされた。

 アラ還暦を過ぎたのに、知らないことの多さに呆然としている。人生100年あっても足りないと思ったが、知らない方が幸せなのかもしれない。
  難波田哲学ではないが、幸・不幸も相互律であり、そう深刻に考えることもないかと思うが、雑学的好奇心には勝てそうもなく、乱読は止みそうもない。

 ところで、バーナード・マンデヴィルは、商業の本質を次のように喝破している。(『蜂の萬話・私悪すなわち公益』泉谷治訳、法政大学出版局より抜粋。)
「奢侈は貧者を百万人雇い、いとわしい自負はもう百万人雇った。羨望そのものや虚栄は精励の召使いであった。彼らお気に入りの愚かさはあの奇妙でばかげた悪徳の食べ物や家具や衣服の気まぐれでこれは商売を動かす車輪になった。」
  読者がマンデヴィルのこの言葉をどう捉えるのか、興味は尽きない。
  個人的には、人間の生存に必要なモノ以外は、そのほとんどが人間が後天的に獲得した欲望の産物以外の何物でもないと思うのである。
  いくらキレイ事を並べたところで、人間の欲望を煽り、奢侈を推奨し、見栄・ねたみ・虚飾を助長し、それが拡大・増長することが経済発展と賛同し、人種・国家を越えて世界に蔓延した結果が現在の状況であると思わざるを得ない。
  資本主義経済といい、自由主義経済といい、近代経済学が教えるところは他社より良くありたいという人間の欲望そのものであることを、心に銘記したいと思うのである。
  仮に人間が欲望から解放されたとしたら(もっとも、そんなことはあり得ないが)、もはや人間とは言えない。人間的欲望がなくなれば、神・仏としか言いようがないが、そのような人々がこの世界に溢れたら、この社会は存続できないのであろう。

 産業革命時のイギリスで書かれたマンデヴィルのこの本は、資本主義礼賛と宗教団体等から激しく攻撃されたようである。
  とかく人間はキレイ事で済ませ、醜い現実から目をそむけようとするが、本当にそれでいいのか、再考する必要がある。

  政治世界の権力闘争も、所詮見栄・ねたみ・虚飾以外の何物でもない。政治家は国民のためと声高に叫んでいるが、政治家の誰一人として命を賭して原発事故の最前線で頑張ろうとはしていない。大本営本部と同じで、弾の飛んでこない安全な所で、十分な食事と睡眠をとりながら、現場の人間に対しては、過酷な状況を知りながら、特に対策を考えるでもなく放置し、徒に時を稼ぎ、責任を曖昧にして逃げ切ろうとしている。

 武士社会から明治維新によって足軽侍が政治の中枢を担ってきたが、明治が遠くなるにつれ、武士道精神は衰退し、国家の品格も人間の品格もどこかに消えてしまったその涯に、バーナード・マンデヴィルが指摘したようにありとあらゆる欲望が跋扈する社会が出現した。
  貧しくても豊かな精神社会から、物質的には豊かであるが貧しい精神社会を社会の底辺を支える貧しい人々の犠牲の上に作り上げてきたが、はたしてそれで良かったのであろうか。
  専門家ムラは、時の権力に寄り添い、ことの本質や権力にとって都合の悪いことには目をつむってきたのは、紛れもない事実である。

 哲学なき政治・哲学なき専門家・哲学なき報道機関等に踊らされていることにも気がつかない一般市民からなるこの国に、明るい未来はあるのであろうか。
  もっとも、暗い時代を基準とすれば、未来は何時も明るいということになるのであるが、バーナード・マンデヴィルは、この本の諸言で次のように述べている。

 
 

蜂の萬話ー私悪すなわち公益2