『相互律』という言葉を目にしたのは、約30年以上も前のことである。当時この言葉が持つ深い意味を特に意識はしていなかったが、世の中の事象は全て相互律によって考えるべきではないかと思ったものである。その思いは時が経つにつれ深く、そして鮮明になりつつある。馬齢を重ねたせいかとつくづく思う今日この頃である。
ところで、相互律という言葉を知っている読者は少ないと思われるので、相互律という言葉を定義した難波田春夫先生について少しふれてみることとする。早稲田大学田村正勝研究室のホームページによれば、難波田先生は1931年に東京大学を卒業後、早稲田大学等の教授を歴任された後、関東学園大学・酒田短期大学の学長を務められ、1991年9月に85歳でご逝去されている。
ところで、前述のホームページに掲載されているレポートによれば、「アレロノミーの探求」と題して相互律について以下のとおり記述されている。
「アレロノミーの探求
最近の先生は、仏教の「事理」を援用されて、ご自分の哲学を説かれていた。こと(事)すなわち現象と、事わり(理)すなわち原理とが相依相俟の不可分な関係にあり、とりわけ「理」を我々がどのように捉えるかによって、歴史が決定されると説いておられる。近代以前の人々は、この理をヘテロノミー(他律性)と考えていた。全ての現象や人々の生活は、神や支配者に依存するというのである。しかし、近代になると人々はこの原理をオートノミー(自律性)と捉えるようになった。一切の現象や人間は皆、それぞれ独自の存在根拠に基づいており、自律性をもっていると考えている。このオートノミーゆえに、近代科学と技術が発展して物的繁栄がもたらされた。しかし他方でオートノミーゆえに環境破壊と文化の退廃がすすんだ。なぜなら、オートノミーは人間生活の全ての欲望や領域の自律性を認めるが、こうした解放の下では特に物質的豊かさの追求が支配的なり、これが他との関係を考慮することなく、自律的に追及されるからである、と先生は説かれた。
言うまでもなく、ヘテロノミーもオートノミーも真実在の原理ではない。人類はいまだ真の原理に気づいていない。先生は真実在の原理をアレロノミー(相互律)と命名された。」(詳しくは早稲田大学田村研究室のホームページをご覧下さい。)
以上、少々長くはなったが、ホームページより引用させてもらった。
筆者は難波田先生の専門書を読んだわけではなく、一般市民向けに書かれた新書もので読んだだけであるが、これまで相互律という言葉を忘れたことはない。
哲学的に深く理解したわけではないが(その能力はないが)、個人的には相互律とは、いわばコインの裏・表であり、世の中の事象はそのほとんどが相対立する概念によって成り立っていると理解したのである。能力があるとは、能力がない人がいて初めて成立する概念である。
この本(『警告! 日本経済の破綻』経済往来社)を読んだ当時は、東京のある零細企業の管理職をしていたが、部下全員が年上のため、常日頃管理職として、あるいは人間の生き方としてどうあるべきか悩んでいた(ホント?)。
出来の良い人間は、出来の悪い人間に向かってお前はダメ人間だなと言うが、そう文句を言っている人間も、それ以上に出来の良い人からはダメ人間と言われる。
筆者は、難波田先生の相互律の概念によって、モノ事の大半は相対立する概念で成り立っていることを思い知らされた。白は黒があって、表は裏があって、美人は美人でない人がいて、初めて成り立つ相対的概念で、絶対的ではない。つまり白がない世界では黒という概念は成立しない。したがって、悪のない善もないし、裏がない表ばかりの世界もない。誹謗中傷大いに結構。
しかし、相互律という概念に従えば、他者の排除は結局のところ自己という存在概念の否定につながると難波田哲学は説いている。相対立する人がいて初めて自分の存在意義があるということを謙虚に受け入れたいと思うのである。
くどいようだが、自分と異なる人(見かけも年齢も職業も考え方も能力も…)が存在してこそ自分の存在意義があるのであるから、世の中の人々が自分とは相容れない他者を排斥するような考え方から少しは脱却して欲しいと願わざるを得ない。 |