組織は最大犠牲点に向かう ― 本当は恐い日本人 ― Vol.5
2013.01.15
VOL.05 本当は恐い日本人

 一人一人の日本人は極めて温厚で、他者への思いやりに溢れている。
 これは世界に誇れる日本人の気質である。
 しかし、一方で、村社会の構成員としての日本人は、時に冷酷で残忍になる。

 このような気質は、第2次世界大戦中によく表れている。
 戦争に反対するものを非国民と非難した一般市民やマスコミ。
 アメリカ海兵隊と戦うよう女性や子供に竹槍訓練した日本軍・学校教育者。
 国民の大半が客観的・合理的思考を停止・放棄していることに気がつかなかった(?)現実。
 さらに、日本軍のどうしようもない残忍さ。
 どんなに倫理にもとる行為といえども、普通のごく善良な市民が見せた軍人としての残忍な行為。
 満州の開拓民を置き去りにしていち早く敵前逃亡した関東軍。
 沖縄戦では女・子供まで戦場に駆り立て、多大な犠牲を負わせたのに命令した士官は口を閉ざし、反省の弁を述べるのは下士官・兵隊ばかりである。

 運命共同体といいつつ、潔く責任を取らない体質は、戦後66年を経ても変わっていないことは、昨今の出来事で証明されている。
 日本人を語る時、個としての日本人と村社会の構成員としての日本人とでは、その行動様式を大きく異にし、同列には論じることができないということ留意する必要がある。
 『人間の条件』という大作映画の中でも、個としての日本人と団体構成員としての日本人の相克が描かれている。
 訓練と称して死に至らしめるような行動は、今もって部活等の中にも垣間見ることができるのである。
 また、大阪地検特捜部の事件を見るまでもなく、相当の教育を受けた能力がある者でも、組織の前では平気で無実の者を貶めることがあるのである。

 このような日本人の二面性を見るとき、日本人は本当に恐いと思うのである。

 くどいようだが、平穏な生活をしている時の一般市民としての日本人と、村社会あるいは団体構成員としての日本人の行動は、ある場合には極端に異なり、同じ日本人とは到底思えなくなるのである。
 私を含めてそこのところをよく自覚すべきと肝に銘じなければと思っている。

 繰り返すが、日本人は本当は恐いと思うのである。
2013.01.15 09:14 | 固定リンク | 鑑定雑感

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