組織は最大犠牲点に向かう ― 本当は恐い日本人 ― Vol.4
2012.12.17
VOL.04 日本における村社会

 日本人全体にいえる農耕民族としての共同体意識と、そこから派生する共同体行為に反するものへの陰湿な制裁は、時代を超え、形を変え、姿を変えて今なお我々の心の奥底に巣食っている。

 原発事故をめぐる批判・非難が雨霰の如く飛び交っているが、事故前は一体どうであったのであろうか。
 筆者の知る限り、原発事故の危険性やその対応について、今ほど自由闊達に議論されていたとは到底思えないのである。

 震災前は、原発問題の危険性に対する議論や論文はほとんど無視または排除されていたことが明らかになりつつあることから、東京電力を有力者とする強力な原子力村が形成されていたのはほぼ間違いないことと思われる。

 このような中で、原発事故を契機に一度村社会の掟破りが容認されると、堰を切ったように原発リスクに対する批判・非難が巷に溢れてきたが、一体何が本当で何が嘘なのか、誰にも分からない。
 まして、我々のような一般市民が原発に対する十分な知識もなく非難しているのならともかく、いずれも一流大学の専門家と称する人たちの批判である。
 原発のような科学の領域に属する分野で、専門家同士の見解がこれほど分かれるとは一体どういうことなのであろうか。
 科学を振り回す人間の胡散臭さを感じる今日この頃である。

 ところで、日本特有?の村社会は、何も原子力村に限ったことではない。
 日本中のあらゆる所で、いろいろな村社会が形成されていることを自覚する必要がある。
 前述したように、日本特有の村社会は、ある意味、運命共同体である。

 したがって、運命を共同できない人間は排斥される。

 日本において一番の問題は、マスコミ界の村社会である記者クラブであろうと思っている。
 記者は言論の自由を標榜しつつ、記者クラブ内に異質の人間が入り込むことを許さない。
 世界に例を見ない記者クラブという存在が、図らずも日本社会における村体質を最もよく表していると思わざるを得ない。

 原発問題にしても、電力会社から多額の広告費をもらっていれば、真正面から原発の危険性を論じることはできない。
 仮に危険性があっても、危険は低いとか、重大事故につながることはないとか等、電力会社を擁護するような記事しか書けないのは当たり前のことである。

 何を今更と思うが、それが現実である。

 18世紀初頭のバーナード・マンデヴィルの「蜂の萬話」ではないが、この世の利益を貪る人々は、その裏側に潜む不都合をも受け入れなければならないと思わざるを得ない。
 つくづく人間とは実に摩訶不思議な生き物であると考え込んでしまうほかはない。

 ところで、この村社会は残念ながらと言うべきか、やっぱりと言うべきか、ほとんど全ての業界にも形成されており、業務の根幹に関する問題について、公にはあからさまな議論はできない。
 議論するなら組織のしがらみから脱出しなければならないということである。
 つまり、異論を差し控えなければ組織の恩恵は受けられないので、異論をとなえることは難しいということである。
 そういう意味でも、原子力村と同じ構図が多かれ少なかれどの業界にも厳然としてあると思わざるを得ない。

 どうして原子力村だけの批判・非難ができようか。
 日本人は全てどこかの村社会に帰属している。
 それ故に村社会内部においては相互の批判・非難はできない。
 運命共同体である以上、運命を共にできない人間を構成員として認めることはできないからである。
 批判・非難するのであれば村八分を覚悟するか、村社会から出なければならない。
 村社会の有力者からすれば、村を捨てた者の批判等は痛くも痒くもないのある。
 村からの脱落者は所詮負け犬であり、マスコミは関心を示さない。
2012.12.17 09:07 | 固定リンク | 鑑定雑感

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