不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ― Vol.3
2021.09.16
VOL.03 不動産鑑定士は神の見えざる手 

 話が少しずれてしまったが、あらためて不動産の鑑定評価に関する基本的考察を数10年ぶりに読み返してみた。

 今更ながら理念の高さに驚く他はないが、その理念の高さ故に実行不可能かなと思わざるを得ないこともある。(筆者の単なる能力不足のせいか)

 ところで、基本的考察では、不動産の適正な価格は、他の一般財と異なり、何人にも識別され得るかたちで市場に存在してはいない。
 したがって、不動産の適正な価格を求めるためには、鑑定評価の活動に依存せざるを得ないことは当然であり、これが鑑定評価活動の必要性が生じている所以であるとしている。

 そして、鑑定評価によって適正な価格に到達するためには、形式的要件(対象の適確な認識・資料の収集・整理・分析・解釈・判断等)を満たした上で、実質的要件を満たさなければならないとしている。

 つまり、判断の当否は、これらの各段階のそれぞれについての鑑定評価の主体の能力いかん及びその能力の行使の誠実さのいかんにかかわるものであり、また、必要な関連諸資料の収集整理の適否及びこれらの諸資料の分析解釈の練達の程度・・・・・に依存するものであるとしている。

 続いて、鑑定評価は、何人でもこれを行いうるというものではなくて、「精密な知識と豊富な経験・・・・・及び適確な判断力をもち、さらにこれが有機的かつ総合的に発揮できる練達堪能・・・・な専門家によってなされるときに、はじめて十分に合理的であって、客観的に論証できるものとなる」としている。

 知らないということはいいことで、受験勉強当時の筆者も、何の懸念も抱かず、そうかと思ったのである。

 あれから30年余り、今更ながら思うのである。

 経験はあると思うが、果たして精密な知識はあるといえるか?適確な判断力はあるか?(自分はともかく他人は認めているか?)、これらを有機的かつ総合的に発揮できる練達堪能な専門家といえるか?

 これらの能力の一つでも欠けていれば、鑑定評価の主体となることに疑問符がつくことになる。

 基本的考察に値するような鑑定評価の主体となる資質に欠けている点は無いのかと自問すれば、当然そのような境地には到っていないと断言できるのである。

 とすれば、自分が日々行なっている鑑定評価は、とても「十分に合理的であって客観的に論証のできるものとなる」とはいえないことになる。
 それでも日々の糧を得るがために、練達堪能な専門家のフリをして、ある意味世間を誤魔化してというか、世間の誤解を良いことに、業務を行なっていることに忸怩たるものを感じざるを得ない。

 いずれにしても、基本的考察の言わんとすることは、鑑定評価とは即ち神の手になり代わって市場を明らかにすることにほかならないのでは、と思うのである。

 その意味において、筆者個人としては神の見えざる手になり損なった(というより、そんな能力はないというべきか)というほかはない。

 神の手への道は険しく遠いと実感している。
2021.09.16 13:14 | 固定リンク | 鑑定雑感

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